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驚きと浪漫の国

目で見て手でふれる驚きと感動。
さあ、壮大な「時」の流れを実感しに出かけよう!

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鎌倉幕府の序章は、ここ伊豆の国で幕を開けました。

かの源頼朝と北条政子のロマンスが、この地に芽生えたのは平安末期。
これを端緒に、鎌倉時代の日本はここ伊豆の国からゆっくりと動き始めたのです。


源頼朝の妻・政子は北条時政の長女として1157(保元2)年、この地に誕生した。
 このあたり一帯はかつての北条館の跡であり、付近の字名を「御産所」といい、この井戸の水は安産に霊験ありとの伝承から近年まで妊婦に飲ませていたという。

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山木遺跡の出土品を収蔵、江川太郎左衛門の資料も展示。また、韮山町の歴史を豊富な資料で紹介。

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国指定史跡「韮山役所」の中にあり、国指定重要文化財。主屋は単層入母屋造りの壮大な建物で、「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは、今日でいう免震構造になっている。三和土の土間には立ち木をそのまま柱にしたと伝えられる「生き柱」や、日蓮直筆の「比伏せの護符」を納めた棟札箱が見られる。
 これまで一度も火災にあっていないことから、文書類・書画・武具を始めとする様々な品が残っており、その一部は屋内に展示されている。

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国指定史跡。1189(文治5)年、源頼朝の奥州攻めの成功を祈って、北条時政が建立した寺であるが、北条氏の氏寺的性格を強く持っていた。その後子どもの義時や孫の泰時によって堂塔が整備され、壮大な寺院となっていった。戦火にあって堂宇は失われたが、発掘調査で大御堂・南新御堂・南塔・池畔などの跡が明らかになっている。

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頼朝の旗挙げの際、真っ先に血祭りに挙げられた平兼隆(法名は香山寺殿興峰兼隆大禅定門)を祀る寺である。
 境内には兼隆供養塔や室町時代の六地蔵石憧という石塔などが残り、アーチ状の山門は明治のころ存在した伊豆国生産会社の門を移築したものである。

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1362(貞治元)年、室町幕府の有力者・畠山国清が創建したとされ、1368(応安元)年関東管領の上杉憲顕が本格的な寺として修築した。
最盛期には子院78、末寺300を擁する壮大な伽藍となり、室町幕府3代将軍義満の時には関東十刹に加えられた。

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珍しい風習で、増え続けるお地蔵さま

江戸時代末期より子授けの仏として知られている。子宝を望む人が地蔵を一体持ち帰り、お願いする。子が授かると、持ち帰った地蔵と新しい地蔵を持ってお礼参りに来る習わしになっている。小室の岩肌に彫られた地蔵尊に寄りそうかのように広がる約200体の小地蔵尊は、大きさや顔立ちも様々。一体一体拝顔していると、不思議に幸せな気分になってくる。

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中世に始まる曹洞禅林としての真珠院は、歴代の住僧たちによって、近隣の寺を末寺として取り込み壮大な寺院に発展した。
 山門を入ってすぐ右側には八重姫(静姫)の供養堂がある。伝承によれば、頼朝のあとを慕って伊東から山を越え北条館を訪れた八重姫は、頼朝の心変わりを知り、この寺の前にある真珠ケ渕に身を投じて果てたという。

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源氏再興の悲願を胸に、若き頼朝は三島明神への百日詣でに通う道すがら、折にふれ原木にある餅売りの媼の店に立ち寄った。
 媼は不遇な源氏の御曹司を励まし、時には蛭ケ小島を訪れ餅を献じることもあったという。1180(治承4)年8月、頼朝は兵を挙げ平家を倒して鎌倉幕府を開いた。
 頼朝は旧恩を忘れず、媼を訪ね「何なりと望みをかなえよう」と言ったところ、媼は「私は老い先短いので、阿弥陀仏を拝んで余生を送りたい」と願ったという。
 頼朝は早速阿弥陀仏を与え、一寺を建立して媼の望みをかなえてやった。

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鎌倉幕府8代執権・北条時宗の第3子正宗(幼名満市丸)が、鎌倉幕府滅亡の年、1333〔正慶2)年に北条一族の菩提を弔うために一宇を建立したという。正宗の長子・宗仁がこれを修造し成福寺となった。本堂北側には北条一族の供養塔がある。
 境内には世界中から集められた200種・300鉢の花蓮があり、毎年6月中旬から8月初旬の早朝から午前中にかけて開花し見学者で賑わう。

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国指定史跡。守山山麓一帯は北条市の屋敷であったが、室町幕府によってその跡に堀越御所が構築された、8代将軍・足利義政は、関東を治めるため1457(長禄元)年、天竜寺にいた弟の政知を還俗させ、伊豆に下向させて堀越公方とした。

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毘沙門堂への道すがら、両側には多くの梵字や仏像が刻まれた巨石が点在している。
 下から順に両界曼陀羅種子、阿弥陀三尊種子、石地蔵(町指定文化財)、蛇石、夫婦石、こだま石、弘法石(町指定文化財)、硯石、冠石などがあるが、毘沙門堂が元は真言密教の道場であったことと関係があると考えられている。

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後北条氏の祖・伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が1493(明応2)年、堀越御所の足利茶々丸を討ち、伊豆国支配の拠点としたのが韮山城である。
 やがて後北条氏は小田原に拠点を移し、5代・約1世紀にわたり関東を支配するが、早雲自身は終生この城を離れることなく、1516(永正16)年、韮山城内で88歳の生涯を閉じた。(法名は早雲庵天獄宗瑞)

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国指定史跡。幕末になって欧米列強が開国を求めて来航するようになると、沿岸防備充実の声が高まり、従来の青銅製大砲に代えて強力な鉄製大砲鋳造へ要求が強まっていった。
 反射炉は従来の青銅製大砲鋳造などに用いられていた坩堝に代わり、蘭学の知識やオランダの文献資料などをもとに金属溶解炉として作られたものである。そのしくみは、炎が煙道を通る際、湾曲している天井部に反射するため、さらに高い温度が得られる、大量の鉄を溶かすことができるようになっている。

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平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母・池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ケ小島に配流され、1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされる。
 流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったと思われ、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三島の三社詣、天城山での巻狩りなどの伝承も残されている。当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中州、あるいは湿田の中の微高地(田島)であったと考えられる。
 他にも蛭ケ小島と称する中州がある中で一番小さかったことから後年「蛭ケ小島」と呼ばれるようになったものであろう。・・・

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国清寺の鎮守で毘沙門天(多聞天)を祀るお堂である。かつてこの地には安養浄土院(奈古谷寺)があったが、のちに荒廃していたものを頼朝が文覚に命じて授福寺として再興した。
 この寺も今はない。当初、毘沙門堂は授福寺の鎮守であったという。山中には文覚が修業したという不動の滝、境内には文覚の護摩石(硯石・鏡石)と伝わる巨石があり、仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の作で県の指定文化財である。

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国指定史跡。北条氏は恒武平氏の流れを汲み、この地(北条)に移ってきたのは北条時政の祖父(時方)の頃と推定される。時政の父(時家)が初めて北条氏を名乗り、伊豆北条を本貫の地とした。
 時政は娘政子が源頼朝と結ばれたことを機に、一族の命運をかけて頼朝の旗挙げに加担し、鎌倉幕府の創立からその運営にいたるまで重要な役割を果たした。
 鎌倉幕府ナンバー2の地位である執権を世襲するようになって、拠点は鎌倉に移ったが、その間も本貫の地を忘れることはなく、北条館は維持されていたと思われる。

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1261(弘長元)年、伊東に配流された日蓮と出会った江川家16代英親は、日蓮の宗義に感銘を受け、深く帰依して在家のまま弟子となった(優 婆塞日久)。
 以来、江川家は真言宗から日蓮宗へと改宗し今日にいたっている。1506(永正3)年、24代英盛は邸内にあった大乗庵を移築し本立寺を創建した。
 本堂の裏手は江川家累代の墓所となっている。

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八重姫ゆかりの地

治承元年(1177年)7月16日、源頼朝との悲恋の結末に、自ら命を断った伊東祐親の娘・八重姫と、姫に殉した5人の侍女の霊を慰め弔ったのがここ女塚であるといわれています。以前は、峠の四つ辻にひっそりと小さな墓や石碑があったといいますが、いつしかその行方は分からなくなってしまったといいます。
昭和50年(1975年)、「女塚保存会」が結成され新しい慰霊碑が建立されました。また、ここを訪れた中河与一夫妻の歌が、保存会によって碑に刻まれています。
平成6年度に大仁町事業の一つとしてきれいに整備され、「女塚史跡公園」に生まれ変わりました。

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源氏の守護神・八幡神を祀る社で、1180(治承4)年4月27日に高倉宮以仁王から平家追討の令旨を受け取った頼朝は、開く前に守山八幡宮を遙拜したという。また吾妻鏡によれば、1195(建久6)年12月16日のころに、願成就院に毎晩のように石が飛んできて堂の扉を破ったり、天井を人が歩くような物音がしたと書かれている

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今から約1800年前の水田稲作遺跡として知られる山木遺跡は、登呂遺跡、唐古・鍵遺跡と並んでわが国を代表する弥生時代の遺跡である。
 特に水田稲作に使われた大量の木製農機具の出土が特徴的であり、田下駄・田舟などのほか、高床倉庫の梯子や柱に付けた状態で発見された「ネズミ返し」など、山木遺跡での出土状態から初めてその用途が明らかになったものもある。
 遺物のうち239点が国の重要有形民俗文化財に指定されており、郷土史料館で見ることができる。

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1180(治承4)年8月17日の夜、折しも三島明神の例祭で山木館の郎党が祭に出かけ手薄になるのを見越して頼朝は兵を挙げた。一行は真夜中に北条館を出発、牛鍬大路を通り先ず多田館の堤信遠を討ち取ってから、天満坂を越えて山木館へと向かった。山木館も激戦の末ついに陥落、平兼隆は加藤景廉によって討ち取られた。
 館にかけられた火は、北条館で今や遅しと戦勝を待ちわびる頼朝へ勝利を知らせるとともに、源氏再興の狼煙となった

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県指定文化財。蛭ケ小島の片隅にある旧上野家住宅は、北伊豆地方の典型的庶民農家住宅の面影を伝える貴重な建築である。
 この建物は茅葺き平屋建てで、西向きの入り口から入ると、いわゆる「左土間、右三間作り」になっている。
 建物の約40%を台所兼作業場としての土間が占め、各室は「いろり」のある「ひろま」と「ざしき」、「なんど」が配されている。

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古墳時代の終末期(約1300年前)に築造された墳墓です。大正5年(1916年)に、山道改修工事の際、偶然発見されたといわれています。また、昭和47年(1972年)には発掘調査が行われています。その結果、直径14m、高さ約3mの円墳であり、横穴式石室を内部主体とし、「変形家形石棺」を伴ったものであることが分かりました。
家形石棺は、静岡市の賤機山古墳・丸山古墳、長泉町の新屋後1号墳・山ノ神古墳・下土狩1~3号墳などから発見されていますが、北伊豆及び中伊豆地域ではこの平石古墳が唯一のものです。

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